なぜバットマンは不殺を貫くのか?


   −静かなる番人 目を光らせる守護神

               ダークナイト−

いきなり引用文から始まった本記事ですが、正式なブログ再復帰第一回のお題は私のオールタイムベスト二位(格落ち致しました)にして最高のヒーロー、「バットマン」についての記事です。アイコンやらツイキャスやらでご存知の方も多いと思われますが、私の一番好きなヒーローはバットマンです。犯罪を激しく憎むあまり、復讐心と狂気に飲まれたマスクを身につけ、夜な夜な故郷ゴッサムのために命をかけるヒーロー、もとい狂人の物語。その狂おしいまでの信念と正義感は時に人から理解されず、その不殺の近いは疑問視されることがあります。先日、友人にクリストファー・ノーラン監督の傑作「ダークナイト」を勧めた時にも、同様の疑問にぶつかりました。曰く、「なぜジョーカーがあそこまで悪行を重ねているのに、バットマンは彼を殺さないのか?」ということでした。確かに、今作におけるジョーカーの悪行は数多く存在する実写作品の中でも最悪のレベルであり、その行いを罰するに殺人を選択するのも仕方がないと言わざるを得ないでしょう。

しかし、ここでもしバットマンが殺人を犯してしまったらどうなっていたでしょう?おそらく、そこらへんに転がっている凡庸なヒーロー作品のレベルに落ち着き、作品全体からしても映画史に名を残すほどの傑作とは言われずに忘れ去られていうたでしょう。更に言えばバットマンの信念を固く信頼するファン層から酷評を浴び、「ビギンズ」から一貫して描かれてきた「守護神としてのバットマン」像が崩壊していた可能性すらあります。それほどまでに今作における彼の不殺の心情、信じるべき正義、狂おしいほどの自己犠牲は重要なキーワードであったわけです。

彼が不殺を貫く理由は、それが彼が最も憎む行為そのものであり、コウモリの狂気に囚われたバットマン=ブルース・ウェインの人間性を保つ最後の鎖となっているからです。ここが、ジョーカーやトゥーフェイスに並ぶヴィラン達との明確な線引きとなっています。言ってしまえばバットマンもマスクを付けた怪人に過ぎず、その戦いっぷりは普通の目線からしたら明らかに「異常」なのです。そんな異常行為を繰り返す彼が私刑を与えてるとは言え、警察に犯罪者を委ね、法のもとに裁かせることが強く犯罪を憎む彼の正義感を定義づけているとも考えられます。

また、本作おけるジョーカーは、ミルトンの「失楽園」におけるサタン(ルシファー)の役割を担っており、事ある毎に人間を悪の道へと引きづりこもうとします。「(悪に引きづり込むことは)重力みたいなもんさ。ほんのちょっと後押しするのさ!」とはジョーカー本人の弁ですが、これこそが劇中での役割であり、理性を得た悪意そのものである彼の本質、すなわち「試練」であるのです。この役割を果たすために、彼はゴッサムシティの善良な市民や囚人達を試していきます。結果としてゴッサムの人々の高潔な精神の前に彼の野望は潰えますが、ただ一人、悪に堕とされた男がいました。彼の名はハービー・デント。今作のキーパーソンであり、一時バットマンが本気で引退を考えるほどの理想的な正義漢として描かれてきました。そんな彼はフィアンセを失ったことで精神が狂い始めます。あっという間に闇へと落ちてしまった彼は、自分で陥れたであろう人物達への復讐を開始します。バットマンの活躍もあり、彼の死をもって復讐劇は幕を閉じますが、ここで主要キャラの一人、ゴードン本部長が次のようなセリフを呟きます

「…ジョーカーの勝ちだな。」

ジョーカーの勝ち。当人は逮捕され、復讐に狂った男は死んだというのに、自らの敗北を宣言するのです。これはどういうことなのでしょう?つまり、犯罪そのものは終焉に向かったとは言え、ゴッサムの人々が信じた正義が明確に潰えてしまったことを嘆き、ゴードンは上述の言葉を発したのです。補足となりますが、「ダークナイト」におけるハービーは市民からもバットマンを超える救世主として讃えられており、彼の損失と闇落ちとは即ちゴッサム全体の崩壊に結びついていたのです。この最悪のシナリオを防ぐために、バットマンはある決意を固めます。それは自分がハービーの重ねた罪を背負うという選択…。結局は暴力で訴えることしかできない自らの正義を疑ったブルースは、高潔な精神と法に裏打ちされた救世主ハービー・デントの正義を信じる方がゴッサムとって良いことだと認識したのです。直後の「嘘を信じた方が、幸せな時もある」というバットマンのセリフがそれを証拠づけています。結果として、彼の選択は正しいものでした。ゴッサムの市民は「憎しみ」ではなく「真の正義」を心に抱くことで、犯罪に立ち向かう勇気を得たのです。この成果は、トリロジーの最終作である「ダークナイト ライジング」劇中にて語られています。つまり彼は不殺を貫き、正義を信じたことで、人々の心を救ったのです。

この場面をジョーカーの殺害で終了、あるいは全ての罪を(原因が彼にあるとは言え)ジョーカーに転嫁させることで終わらせていたら、確かに形だけ見れば最善かもしれません。しかし、ゴッサムの人々の心に遺る物は憎しみです。救世主ハービーを失った悲しみも憎しみへと変わり、それを防ぐための新たな正義も憎しみから生まれるでしょう。更に言えばバットマンと犯罪者達を分ける最後の境界線も崩壊し、彼は明確に社会の「敵」として認識され、その生涯は闇に閉ざされていたかもしれません。そこに魂の救済は存在するとは言えません。まさに、バットマンの不殺の心情とは彼を救うだけに留まらず、街全体の「正義」を守り抜いたのです。もし、本当にこの場面を「殺害」という選択で終わらせたくば、作品のムードはさらに暗くなり、リスクを大きい演出を選ばざるを得なかったでしょう。そういった作劇の点でも、最後の展開は理想的だったと言えます。

 

最後に…

「ダークナイト」という作品を通してバットマンの不殺について語って参りましたが、今作に限らず、この行いの真意の理由は彼と彼の街の正義を守るためであることは一貫していると思えます。バットマンは歴史ある作品です。当然その中には、まだ定義の定まってなかった時代、過去に縛られない自由な作風によって今では当然と化したこのルールが破られてきたこともありました。ですが、大概の場合は相応のペナルティが課せられ、この信念が彼にはなくてはならない物だということを我々に語りかけてくれました。今後も、この信念に疑問を抱く方がいるかもしれません。そんな時、この記事が考え方の参考までになれば幸いに思えます。ということで、文も長くなりすぎたのでそろそろ失礼いたします。それではみなさん、さよなら、さよなら、さよなら…(^ ^)