スーパーマン ザ・ラストエピソードは何を語ったのか?

2018年02月10日

「鳥だ!飛行機だ!いや違う、スーパーマンだ!」

このフレーズで始まる世界一有名なヒーローの名はスーパーマン。今年2018年で生誕80周年を迎える彼は、その長い長い連載期間の中で実に様々な冒険を繰り広げてきた。そんな彼の物語に転機が訪れる。時は80年代のアメリカ。60年代から盛んになった若者文化(カウンターカルチャー)は下火に入り、アメリカンドリームの再来を高らかに謳い上げた映画「ロッキー」の大ヒットによって、アウトローの反旗を描き上げたニューシネマの時代は終わりを告げようとしていた。しかし、この波に乗り遅れたものたちが存在した。アメリカンコミックである。創作物の倫理観を問うヘイズコードの制定以後、アメコミは作中での飲酒描写や性描写、さらには出血描写をできるだけ抑える傾向になり、その戒律から未だに逃れずにいた。だが、二つの作品の登場がコミック業界を変える。フランう・ミラー作の「ダークナイト・リターンズ」とアラン・ムーア作の「ウォッチメン」である。前者は、仮面に取り憑かれ、世間からは過激な暴徒として疎まれる立場になりながらも、己のヴィジランティズムも貫こうとする老バットマン最後の戦いを描いており、後者は現実の歴史にスーパーヒーローが存在したら、世界はどのような形で変革を遂げるのか?という疑問を徹底的にシミュレートした作品として話題を呼んだ。一見無関係に思える両作品において、最も歴史に影響を与えたものは「暴力描写」である。ヒーローの戦いは基本的に正当化されるきらいがある。それはアメリカにおいても、日本においてもあまり変化することのない点だ。アメリカの場合は、ここに銃器の正当性といった問題点が加わる。其の一例として、ポール・ヴァーホーベンが監督した「ロボコップ」における銃とは、キリストと銃を信仰する米国のメタファーとして、その影響力を如実に表してると言える。だが、いかなる場合においても暴力であることに変わりなく、そこに「正義」も「最後」も存在しない。僕が大好きな映画「シェーン」やアメコミ映画の歴史を変えた傑作「ローガン」、さらにはイーストウッドが監督した多くの作品(「許されざる者」や「グラン・トリノ」など)において暴力的な正義の矛盾が描かれてきた。少々長くなってしまったが、ミラーとムーアの発表した作品の共通点はここにあり、ヒーローによる暴力やエゴは果たして本当に正義や変革、ましてや愛を叶えることはできるのか?という究極の問いかけを僕たちに示してくれた。

この作品以後、アメコミの性質はガラッと変わってしまった。もはや従来の「勧善懲悪」は許されない状況と言えた。人種や宗教などで多くの問題を抱えてきたアメリカで誕生したヒーローたちは、そのメタファーとして描かれ、マイノリティ側の代弁者であり続けてきた。しかし、これ以降の戦う相手は単なる空想上の怪物ではなく、本当に社会に存在する悪である必要があったのだ。この革新の波に乗るべく、スーパーマンを生み出したDCコミックが編み出した策が「クライシス・インフィニティ・オブ・アース(以下CIE)」である。これは、すべてのパラレルワールドを崩壊に導く巨悪「アンチモニター」を倒すべく、あらゆる時空のヒーローたちが一致団結するというあまりにも壮大すぎる作品であり、翻訳版に至っては600ページ以上という辞書並みの厚さを誇る大作であった。この作品を通して、必要ない世界を破壊し、本当に必要とされるヒーローのみを残す整理整頓という仕切り直しを行なった。文字通り、全てが「一から」やり直されたDC各紙は新時代にふさわしいヒーローたちの新たなオリジンを描いた。事態はこれで収束を迎えるかと思われた。しかし、最後の問題が立ちふさがる。それは「個人誌」の最終回だ。アメリカのコミックは基本的にクロスオーバー物と単独誌では別々に分けられる。CIEで大役を担ったスーパーマンとてその例外ではなく、最終回を描くにふさわしいアーティストとペンシラー(作家)の選定は悩みの種となった。その時、白羽の矢が立ったのがアラン・ムーアである。ムーアはこの時点ではまだ「ウォッチメン」の製作途中であり、今でいう原作者としての名声は未来での出来事と言えるのだが、編集部ではその能力が高く評価されており、ほどなくして正式なペンシラーに決定した。翻訳版「スーパーマン ザ・ラストエピソード」の序文にも書いてあるが、この選択には傑作「マーベルマン(現ミラクルマン)」の存在があったそうだ(それについてはまた別の機会に)。こうした経緯があって描かれた最後のスーパーマンは昔ながらのレトロの雰囲気を残しながらも、彼の求めるスーパーマンの神話性が存分に活かされた作品と言えた。

 

<スーパーマンとは何者か?

スーパーマンが誕生したのは1938年。アクションコミックという作品にて初登場を果たした。犯罪者らしき男が乗った車。それを軽々と持ち上げ、岩に叩きつける筋骨隆々として男。その服装は青のタイツと伝統的な赤いパンツで固められている。いったいこの男は何者だろうか?興味をそそられずに入れない。彼は胸筋で拳銃の弾を弾き、機関車よりも早いスピードで走り、高層ビルよりも高くジャンプできる。しかも、その正体は宇宙人であり、故郷を失った彼はまさに宇宙の難民だったのである。やがて彼は飛ぶことを覚え、クリプトナイトという弱点が判明した(これはラジオドラマが初出)。さらには数々の宿敵が現れ、同じ正義を執行する仲間「バットマン」と出会った。しかし彼は、どんな状況に立たされようと、人々を導く先導者、あるいは救世主のような立場をとり続けてきたように思える。この「人々を導く先導者」のような姿は、モーセに重ねることができる。「出エジプト記」において、モーセは虐げられている人々を率いて、エジプトを脱出した。この時、有名な海を分断する奇跡を起こし、追っ手から逃れることができた。「奇跡を起こす」という点もさることながら、スーパーマンとモーセはその出自も似ている。前者は滅びゆく故郷から逃れた孤児であり、後者も死の運命から逃れるために川を降って危機から逃れた。その後、心優しき人間に拾われ大切に育てられた経緯もそっくりである。スーパーマンのこのような神話性は2013年に公開された「マン・オブ・スティール」でさらに強化され、彼の姿が聖母マリアのステンドグラスに重なる演出はあまりにも確信的だ。続編「バットマンVスーパーマン ジャスティスの誕生」(2016)における死亡した地球での父親ジョナサン・ケントと語り合う場面も、悩める子に父が助言を与えるという意味ではキリストと重ねて考えることができる。つまり、時代を問わずスーパーマンとは常に人々を先導する神のような存在として描かれる者であり、根底に眠っている信念とは不殺による平和である。其の揺らぎと矛盾を、ムーアは掘り上げていく。

 

<何がマン・オブ・トゥモローに起こったのか?

「人々は期待の面持ちで空を見上げる…いや、あれはただの鳥だ。ただの飛行機だ。スーパーマンは10年前に死んだ。」

スーパーマンの「死」を実感させる衝撃的な序文とともにこの物語は幕を開ける。舞台は彼の活躍から10年が経過したアメリカ。かつて彼を取材した敏腕記者ロイス・レーンを一人の新人記者がインタビューする回想形式で、彼の最期の瞬間を物語っていく。

スーパーマンにはクラーク・ケントという表の顔が存在した。彼はしがない新聞記者の仮面を被り、うだつのあがらぬ男を演じ続けていた。このありきたりの日常が音を立てて崩れ去る。ある日突然ヴィランたちが本気でスーパーマンを殺しにかかってきたのだ。従来の作品ではたとえ凶悪な存在が目の前に立ちふさがったとしても、そこにもフィクションらしい非現実感が常に立ち込めており、読み手としても安心して次のページをめくることができた。ムーアは其の幻想を打ち砕く。ヴィランによる残虐な行いをこれでもかと描写した。これに巻き込まれ、クラークにとって親しい人間たちも傷ついていく。長年のファンにとってみれば、衝撃以上に例えようのない場面だ。このように、アメコミの常識と言える部分をムーアは又しても破壊していった。だが、この破壊なくして最終回はなかった。後年発表された「バットマン ラストエピソード」にもこれは共通していた。両作品共、従来の価値観を一度解体し、再構成することで主役となるヒーローの神話性を暴いていくことに重点が置かれていた。この「神話性」をムーアは不殺に見出したようだ。激闘につぐ激闘で、スーパーマンは仲間たちを失い、深く傷つく。ようやく判明した黒幕の正体もまた以外な存在で、もはや不殺の誓いを破らなければいいけない状況にまで追い込まれた。結果として、彼はこの誓いを破ることになる。この瞬間はある意味、童話における魔法が解ける場面に重ねて考えることができる。たいていの場合、魔法が解けると物語の主人公たちは非日常から日常への帰還を果たす。最初から神話的な存在として人々を導き続けてきた彼にとってみれば、それはまさしく「スーパーマン」という神の「死」を意味していた。最期、スーパーマンは自らを戒めるべく光の中に消えていく。この場面はまるで、天国へと昇天していくキリスト、あるいは愛の本質を理解したダンテのようだ。故に、ムーアが描き上げた最終回とは「神話の終わり」であり、誓いを破ったことで永遠の存在ではなくなった「人間」スーパーマンだったのだ。

 

<あとがき

冬が嫌いです。理由は寒くて暗いからです。子供のような理由かもしれませんが動物である以上、寒さに対して生き辛さや寂しさを抱いてしまうのはある種の宿命ではないかと考えています。そんな時、スーパーマンの物語とかを見ているとホッカリします。ですが、そんな彼の根城は「孤独の要塞」という極寒の地に構えた氷の建物。これは一体何の象徴なんでしょうか?ここからは持論となりますが、それは「本質的に孤独な存在である」ことのメタファーではないでしょうか。氷、雪世界とは古くから孤独の象徴でした。神への反逆を企てた堕天使ルシファーは氷の中に閉じ込められ、雪の女王は閉ざした心の象徴のような世界を生み出しました。また、筒井康隆氏の小説「旅のラゴス」の終盤で、主人公ラゴスはかつて愛した女性を探して、そして自らの死地を求めるかのごとく氷に覆われた世界へと旅に出ます。要するに雪の世界とは、死や絶望の象徴であると同時に、それを超越した存在の世界であるとも考えることができます。スーパーマンは普段そんな世界で生活をしているのです。中では故郷クリプトンを再現し、世界中の危機をチェックし、ヴィランを拘束するファントムゾーンを管理しています。ムーアはスーパーマン最後の戦いをこの地に設定しました。この地でスーパーマンが最後の時を迎えるということは、彼の作り出した「神の国」の崩壊を間接的に描きたかったのではないかと想像できます。彼がいなくなった孤独の要塞に、ぞろぞろとヒーローたちがなだれ込んでくる描写も、その想像を促します。つまり最後の瞬間、彼は孤独から解放され本当の意味での居場所を見つけることができたのです。まことに最後を飾るにふさわしい展開かと思えます。僕もこういった温かな展開が欲しい限りです😂