某仮面ヒーローについて最後に思うこと

2017年03月7日

う~ん、もうね、こんなにまで過剰に反応すること自体大人げないし、書いたとして悪態ばかり思い浮かんでろくな事を書けないと思うのでほんっとに短く纏めるつもりですが…仮面ライダーというかつては栄光を誇っていたヒーローの記事です。たぶん、ほとぼり冷めるまでライダーの記事は実況動画以外書かないと思います(永遠に書く機会がないかもしれないけど)。まあ、書くからにはアンチ覚悟で容赦なく書きます。

このとてつもなくアンバランスで製作者の正気を疑うよう画像は、永遠なる愚行「スーパーヒーロー大戦」のスピンオフとなる作品「仮面戦隊ゴライダー」とか言う、リスペクトの皮をかぶった原作&ファンレ◯プの物です。内容的には「死んだものが何故か復活して謎に迫る」と言うものらしいです。いちいち反応してると放送禁止用語を並び立てる事態になってしまうので要点だけ掻い摘んで書きますが、剣死んでないだろ?もしかしたら「人間的に死んだ」という意味合いもあってこのメンツに選ばれたのかもしれません(事実、仮面ライダーバロンは死亡はしたが、人間も辞めてる)が、寧ろ死にたくても死ねない生き地獄を覚悟した上で「人間として」死んだ主人公です。少し脱線しますが、僕は平成ライダーで剣が一番すきです。確かに、序盤は退屈ですし、滑舌云々もネタにされるのは仕方がないと思っています。しかし、それをすべて吹き飛ばすほどの魅力と感動が、終盤には詰め込まれています。キャラ全てに出会いと別れの辛さを与え、ある種石ノ森作品に通ずる、リスペクトを感じる本編最終回、それとは違うながらの、また別方向で安っぽさのない純粋な感動を描いた劇場版、これら2つの「終わり」には本気で涙を流しそうでした。それくらい、「仮面ライダー剣」という作品は僕にとって大きいのです。まあ、個人の中にある作品の思いは直接は関係してこないのですが、そういった終わりの美しさ、儚さ、尊さ、それらを完全にリスペクトした二次創作作品がpixivや動画サイトに溢れているこのご時世で、何をしてるんだ公式は!?という感覚です。加えて、これはもうディケイドの頃からなのですが、東映は仮面ライダー剣に対して、異常に冷徹な態度を取ります。例を見てみましょう

 

仮面ライダーディケイド→最終回で仮面ライダー剣こと剣崎一真本人が登場するも、なぜかディケイドを瞬殺。最後まで殺しにかかってくる。おまけに、リ・イマジュネーションの剣も本編の感動を一ミリも感じない稚拙なもの。

仮面ライダー三号→オリジナルキャスト登場の告知があるも、なぜか人間体が出たのは仮面ライダーギャレンだけ。しかも剣のマスクは黄ばんでおり、もはやジャックフォームのように見える。

ゴライダー→マスクは修復されず。おまけに死んだことにされてる(コレに関しては幾つかの説がある)

 

…はあ、なんか恨みでもあるんですかね?加えて、最近キャラの死に対して、異常にハードルが低くなってると感じるんですよね。その代表例が今作のキリヤ、またの名を仮面ライダーレイザーです。バグスターと社長の共謀を知った彼は、殺害されてしまいます。この時、人気キャラのあんまりに唐突すぎる死や、公式のフザけた対応で物議をかもしたのは記憶に新しいです。本来、こういった劇的な死を遂げたキャラは無闇矢鱈に復活させるべきではないと思います。人によっては感動の場面、不快な場面になってしまうほどの死を遂げたキャラなら尚更のことです。それをこうもあっさりと復活させる…。それっていくら本編外だとしてもどうなの?この異常な速度での復活劇はある意味恒例とかしてるのですが、安っぽさも半端ないですね。まあ、見てみないと正当な評価は下せません。ですが、この企画に関しても言えるのですが、僕は最近の異常な暴走の根源はバンダイ(の一部門)ではないような気がするんですよね…。例えば、なぜか、なぜか今回の映画(映画なんて呼ぶのも普通の映画に対して失礼)で「世界観を大切にする」といってたはずのアマゾンズが参戦しています。しかもオリキャスは出ません。もい一度言います、担当した某Pは(諸悪の大半を棚に上げて)今の仮面ライダーを「つまらない」と断言しました。その上で「平成初期の雰囲気を再現した」アマゾンズを創り、「他の作品とは絡ませない」という趣旨の発言をしています。まあ、流石に個人では限界はあると思うので、この映画(乙)のゴリ押しオリジナルキャストヒーロー同士の戦いを正当化するかのようなクソ設定、そしてセンスの欠片も感じさせない敵やポスターは、以上の例を通して、東映が元凶ではないか?という結論に至りました。勿論バンダイ(一部門)にも責任があるでしょう。デザインや無理なアイテム増加などがそれです。しかし、こうでもしないと売れない体制を作り上げたのは紛れもなく東映です。長く続きすぎた、と言うのもあるのでしょうが、この依存体制が有り続ける限り、映画(乙)の暴走は止まらないでしょう。

 

・ゴライダーそのものについて

いわゆる「形だけリスペクト」ってやつですね。東映側としては「45周年だし、元々戦隊は複数の仮面ライダーが登場する企画だったんだから許してよね、ファンだったら」みたいな感覚で企画したのでしょう。確かに、スーパー戦隊の原案は、複数の仮面ライダーがチームを組むというものです。それを否定したのが、当時のプロデューサーであった平山亨氏。氏は、「ヒーローは一人であるもの」と定義し、結果として企画は「ゴレンジャー」に形を変え、今に至ります。ヒーローの本質はとは、時代によって変容していくものでしょう。例としてはバットマンが顕著です。元々は探偵ものヒーローだった彼は、次第に暗い過去を背負った狂人という設定に変貌していき、ノーラン三部作に至っては「原題におけるヒーローの存在意義」の語りというポジションを与えられました。これに倣えば、仮面ライダーが複数人集まり、チームを組むというのもまた時代の変化ゆえといえるかもしれませんが、それはあくまでも「最低限」のルールを守ったらの話です。栄光の七人ライダーやスカイは確かにチームを組んだといえますが、個人としての話が確立していたからこそ、際立っていたのです。バットマンの変容とて同じこと。彼の存在定義を守った上での改変を、上記の作品群はしてきました。それならいいのですが、これは絶望的に合ってない。元々チームとして光るデザインをされたゴレンジャーの魅力を完全に殺してますし、安直そのものに思えます。つまり、上に挙げた最低限がなされてないのです。そして、もう一つの問題はファンそのものにもあります。結構見かけるのが、「戦隊は元々~」とか「そもそも石ノ森先生のスケッチに◯◯に近いのあるから」とか言って必死こいて作品を肯定しようとする意見。コレにはセリフにも記した、「ファンだったら」という言葉が深く関わっており、「ファンだったら応援するの当たり前だよね?」「ファンだったら原案のリスペクトだと理解するはずだよね」等の的はずれな意見を並び立てるのが当然という風潮があります。ある意味、日本人の連帯感が悪い意味で発動した結果ともいえますね。製作がこれにつけ込んだ…としか思えません。何れにせよ、まっっったくもってリスペクトを感じないこの作品(?)、配信限定のようです。いや~、予算ないのに配信はするんですね、剣のマスクは直さず…。

 

【まとめ】
こういった「ライダーの明日はどっちだ?」系の議論は、もうやり尽くされたような気がします。つまり、不毛な話なのです。ので、もう僕としては煮るなり焼くなりぶち壊すなり好きにしてください…と言った感じです。ただひとつ、僕のフォロワーさんの言葉を借りて言いたいのは、「量と質は必ずしも比例しない」ということです。これは、過度なオリジナルキャスト推しやゲストライダーのことを示してます。これをまったく学んでない、それよりも以前に増して悪くなってるようにすら思えます。きっと、また調子に乗ったんでしょうね。まあ、それが平成の個性なんでしょうね。ほら、一つ前の彼も「新たな個性 それが平成」とか言ってましたし…